11/3(月・祝)コンペティション部門『私たちは森の果実』上映後、リティ・パンさん(監督/撮影/編集) をお迎えし、Q&Aが行われました。
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リティ・パン監督(以下、監督):皆様、こんにちは。本日はお越しくださいましてありがとうございます。このように会場の皆様とお会いして交流ができますこと、毎回大変楽しみにしております。また、今回の映画祭への招待、ありがとうございます。市山様にもまたお会いできまして、本当にこの映画祭が大好きなので、大変嬉しく思っております。今回、会場にカトリーヌ・デュサール が来ておりますので、ご紹介させていただきます。プロデューサーでありまして、大変辛抱強い方です。
(会場拍手)
司会:市山尚三プログラミング・ディレクター(以下、市山PD):監督の作品を継続してプロデュースしていらっしゃる、素晴らしいプロデューサーです。
この作品を観て思い出したのは、全然違う話なんですけど、リティさんの監督第1作で”The Rice People”という作品があります。 1994年の作品なんですけど、それを観たことを思い出しました。というのは、この映画でも米を作るシーンがあったりするので、全然違う民族の話ではあるんですが、それを思い出したので、初めてリティさんに会ってから30年以上経ってしまったということを個人的には思いました。
質問はですね、「ブノン族」 というふうに表記されていますが、この民族に注目して何年も撮られていると思うんですが、どのポイントでこの映画を作ろうと思われたのかということを、お聞きしたいと思います。
監督:お米の栽培についてなんですけれども、個人的に非常に思い入れがあります。お米を作っている農家さんと親しくしていたりですとか、個人的なことですけれども、私の祖父母がお米を作っておりました。ですので、小さい頃から祖父母がお米の農作業をしているのを見て育ちましたので、いろんな細かいことも知っていました。自分自身、クメール・ルージュ(1975年から1979年までカンボジア政権を握った組織)の時代の頃までは、栽培に携わることはなかったですが、お米作りには、祖父母の存在もあって、子どもの頃から思い入れがあります。
お米については、お米には魂が宿っているという考え方があり、お米を表現する言葉も複数あります。生米や焼き米、蒸し米…とにかくいろんな種類のお米があって、表現もたくさんあります。日本も同じですよね。
ブノン族について、一番最初に作品を作ったのが10年以上前になります。その時のテーマ的には、土地の権利をめぐる大企業との軋轢などに焦点が当たっておりました。その数年後、私は、ボパナ視聴覚リソースセンターの 共同設立者なんですけれども、そこのセンターにお願いをして、ブノン族だけではなく、ジャライ族(ベトナム中部高原地方に居住する少数民族)ですとか、そういったマイノリティの若者も映像制作ができるように養成をしてほしいというリクエストをしました。
それから5、6年経って、今回映されたようなハイランド(丘)でお米を栽培している農家の数が劇的に減っていることを知りました。4年前、『私たちは森の果実』を撮影し始めた頃なんですけれども、特殊な品種であるハイランド(丘)のお米を栽培している家族が2家族いましたが、この撮影の最後の年には、1家族に減っていました。
このように、共同体が消失してきていると感じます。コミュニティが消えていくというのは、お米に関するいろんな儀式だけではなく、様々な伝統や文化、お米に関することなどがどんどん消えるように感じます。文化的な話としましては、米作りの1シーズンの間、つまりは畑を耕し、植え、収穫して穀物倉庫に入れるまでの間に、7つぐらいの儀式が行われます。お祈りやダンス、歌など、そういった儀式的なものが7回ほど行われます。
このように、お米の栽培というのは、人の生活に非常に密着したものです。野蛮という表現が適切か分かりませんが、現在、かなり強烈な資本主義によって、伝統的で文化的な暮らしが危機に瀕しております。ただ、私もブノン族も世の中の進歩に反対しているというわけではありません。進歩もある中で生きたいと思っています。しかし、我々の尊厳、自由、感性、文化が守られた中で生きたいと思っています。そこで、私はこの映画を作りたいと思いました。このように、資本主義がいろいろなところに悪影響を及ぼしているということを描きたいと思いました。そんな中で、人々が受けている傷も描いていますが、これは決してブノン族だけに関係するものではなく、我々自身いろんな場面で共通するものがあると思います。
──Q:場面が移り変わる時、女性の映像が繰り返し挿入されます。どのような意図があるのでしょうか。
監督:女性の映像は、時々3フレームで現れたり、最後にやっと全身が映ったり、繰り返し出てきます。アーカイブのあの女性の映像は、非常に魂が感じられると思っておりまして、一度見たらなんだかすごく忘れられなくて、何度も繰り返し自分の無意識にも出てきて…。実は、他の作品でも使ったことがあります。
フラッシュのように出てきますが、常にあの存在があるからこそ、自分の無意識に働きかけ、撮影を続けていくガイドラインになるような問いかけをしてくれたり、ダイアログをしてくれたりと、いろんな存在として自分を導いてくれるようなものでした。
当時の古いアーカイブとしては、野蛮人と表現するとおかしく、少数民族を観察するみたいな感じでしか撮られていないのですが、それを使うにあたって、いろんな見せ方があるのではないかと思いました。そういった意味で映像に、違う意味や力を与えたいと思ったので、(女性は)いろんな現れ方をして、いろんな見せ方にしています。
そうすることによって、ただ少数民族を人類学者が記録用に撮影したというだけではなく、その人物に対して尊厳と魂を与えてやるような、そういった気持ちで、いろんな使い方をしております。有名な人とかではなくて、ただ、少数民族の女性でした。
──Q:仲買人や土地を所有している企業の存在が前面に出ていなかった印象があります。どのような意図があるのでしょうか。
監督:今回、大企業の人ですとか、土地を奪ったり、買ったりしていく人たちについての映画を撮ることにはまったく興味がありませんでした。そういった企業は、市場のニーズによって地元住民にお金を貸し付けて、その人たちが負債を背負って払い戻しができなくなったところで土地を買って、木を伐採して…というようなシステムがあるんですがそういったところには全然興味がありませんでした。
木には精霊が宿っていると考えられていますが、(土地)開発や伐採が行われると、木の精霊ごと伐採されているということになります。今回、この映画で描かれているように、地元の信仰からキリスト教などに転換してしまう人がいますよね。韓国やブラジルでもキリスト教の人がいますが、転換すると木の精霊の概念など関係なくなってしまうので、木を伐採するといった行動をとります。企業がどうしているかとか、信仰を転換した人がどうしているかということについては、今回まったく興味がなくて。ブノン族の言語や普段の農作業、儀式、彼らの世界の見方にすごく興味があったので、彼らだけに集中して撮りました。
彼らの生き方というのは、自分が必要なものだけを畑に採りに行く、そういう生活を繰り返しています。朝起きて、10時、11時頃にその時必要なものだけを収穫して、午後になったらその時必要な分だけを収穫します。まるで、(ブノン族にとって)畑は、お金を払わずに必要なものが得られる(私たちにとっての)冷蔵庫や市場のような存在です。必要な時に必要なものだけを採るというのが、彼らの自然に対する向き合い方なのです。すごく謙虚に、自然を大切にしながら共存している部分に非常に魅力を感じます。彼らと一緒に過ごしながら学んだことが非常に多かったので、彼らだけに注目して映画を撮影したいと思いました。大企業の人には自分は嫌われているし、何も話してもらえないと思いますが、そもそも興味がなかったので、あくまでもブノン族に注目して撮影しました。
──Q:果物は映画に登場しませんが『私たちは森の果物』というタイトルにしたのはなぜですか。
監督:果物は栽培されていましたが、映画には映っていなかっただけです。今回の『私たちは森の果実』というのは、ある歌から取ったフレーズです。とても好きで、ポエティックな魅力があると思って使いました。「我々は皆家族であり、同じ人類である」という意味合いも含まれていますが、「我々は自分たちの原点に立ち返る必要がある」という意味も込められております。昔、自然に囲まれて共存するときは、木や水、火、土にも魂が宿っていてそれぞれが貴重であったのに、今は、段々と魂も感じられない世の中になっている。全てのスピードが速くなっていて、情報も映像も素早く発信されたりと、いろんなことが速くなりすぎてしまって、我々のあるべき原点が消えてしまっていると思います。ですので、そういったところから目を覚まして、「我々は人類で、こういったものに囲まれて暮らしていた」ということを思い起こさせたいと思っております。現代の、土地を巡る争いや、アメリカが関わっているような世の中の戦争、人を攻撃して領地を拡大するといった暴力性が、人間の性質としてあるのかもしれないけれど、そういったものはとても悲しいですよね。こういったものをストップして、原点に立ち返るために何かできるのではないか、と。子どもらしい夢といわれるかもしれませんが、毎日、何かポジティブなことをしていれば良いことに積みあがっていくのではないかと考えております。毎日が修行のようなもので、良いことを少しずつでもやっていくと、人生最後の瞬間になにか美しいものが見えて、天国に行けるのではないかと考えております。世の中のスピードに流されてはいけないと思いますし、スピードばかり見ていると、最後の瞬間に地獄に行きつくと考えているので、原点に立ち返る必要があると考えております。